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6/15 合理的とは

中間テストも3分の2が終わり、少し気持ちを休めることができるようになりました。しかし、中間テスト中だったとはいえ1週間HPをupしていないのにはひきましたね(-_-;)なんとか今日、税の効果についてupできました。

最近は経済学における「合理的」ということについてよく先輩と議論します。経済学ではよく、経済主体が合理的であると仮定して議論を進めます。その仮定に対して反論がたくさんあるのです。しかし、その議論の焦点が混ざり、多くの勘違いを生んでいるのが今なのではないかと思います。そこで少し私の考えるところを述べたいと思います。

まず、人々が合理的であるということに反論は大きく分けて2つあります。ひとつは経済学で述べるほど「人々は合理的に行動しない」というもの、もうひとつは経済学で仮定する「人間の能力が高すぎる」というものです。この二つの議論が混ざりあって、経済学の合理性という仮定はおかしいとうい議論を生んでいますが、この二つが混ざり合うことが経済学の問題点をわからなくしていると考えられます。

まず前者によって反論される仮定は次のようなものです。1.Aという商品とBという商品があった場合、どちらが好きか、もしくはどちらも同じくらい好きだと判断できる。2.商品Aよりも商品Bが好きで、商品Bよりも商品Cが好きな場合、商品Aよりも商品Cが好きである。3.同じ商品は同じくらい好きである。4.与えられた条件のもとで、目的を果たすために行動する。これらに対して、1.好きかどうかわからないこともある。2.カレーライスよりもラーメンが好きで、ラーメンよりもスパゲティが好きだけど、スパゲティよりもカレーライスが好きということもある。3.同じ商品でも同じくらい好きとは限らない。4.人々は目的を遂行するために行動するのではなく、直感的に行動することがある。と反論しているのです。まぁ、確かにスーパーでどっちを買うか迷う時もありますからね。自分の好みを自分で詮索しているのかもしれません。

後者によって反論される仮定は次のような感じです。1.人々は無限回(億単位だとしても)のケースを考え、その中で最適な経路を計算し導きだすことができる。2.人々は一度得た情報を忘れることはなく、すべての情報を活かしきれる。3.(将来も現在と同様の経済構造があり、市場に対して予測できない外部からのショックがなければ)人々は将来を完全に予測できる。などなどです。つまり、計算能力や情報収集能力などが高すぎるということですね。

つまり、前者は人々が論理的に判断し動くことができるということがおかしいというもので、後者が能力が高すぎるという反論です。

ところで、経済理論では現実経済を単純化しモデル化しているわけですから、現実とは多少異なる仮定をします。単純化するのは、複雑にすると分析が大変困難になることと、複雑にした結果、結論を何も得られないということがあるからです。しかし理論は単純か現実味のある複雑なものなのかが問題なのではなく、問題なのは、「何のための理論なのかという価値観」と、その理論によって「現実を説明することができるのか」「将来を予測したり、経済に対して正しい処方が行えるのか」ということです。より現実味を帯びた複雑な理論ができあがったとしても、単純なモデルと同じくらいしか現実を説明できていなければ、そりゃあ単純なモデルを使います。

したがって、モデルを現実に近付けるという徒労を買うのは「より現実を説明できる理論が作れる」からか、「その理論そのものが現実に影響を与える」からか、「飽くなき探求心」によってでしかありません。

とすると、合理性に対する先ほどの2種類の反論もまた、これらのどれかに属するはずですし、どれにも属さない反論は、批判ではなく、単なる経済学に対する悪口です。

っと、長くなりましたね。続きはまた今度します。

それではまた★


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